NHKの政治部記者として、小泉政権の官房副長官時代から安倍晋三元首相の担当を務め、以来20年にわたり取材を続けてきた岩田明子氏。その岩田氏が事件後はじめて筆を執ったのが本稿です。その日の夜、統一教会について岩田氏が問うと、安倍氏は言葉少なに……。月刊「文藝春秋」2022年10月号より「 安倍晋三秘録(1) 」の一部を掲載します。
その日、永田町からほど近いNHK千代田放送会館で原稿を書いていると、携帯電話が鳴った。液晶には「安倍晋三」の4文字。午後10時27分のことだ。
NHKの政治部記者だった私が、安倍の担当になったのは2002年、小泉政権の官房副長官時代からである。以来20年にわたり取材を続けているが、ここ数年、特にコロナ禍では、電話でのやりとりが日課と化していた。多いときは1日に複数回、取材のために電話をかけるときもあれば、安倍が情報収集や雑談するためにかけてくることもある。時間帯は決まって午後10時30分から深夜零時の間だった。
この日、最初の話題は、辞任を表明したばかりの英国のボリス・ジョンソン首相についてだった。安倍は2019年にジョンソン首相との首脳会談に臨み、G7などの場でも顔を合わせている。電話口の向こうで感慨深げにこう語った。
「ジョンソン首相の辞意は、今後のアジア太平洋地域への影響を考えれば残念だね。内政が相当きつそうだったから、仕方ないのかもしれない。北朝鮮による拉致問題への対応を真っ先に支持してくれたし、日本にとって貴重な友人だった」
一方の私は、あることで安倍に聞きたいことがあり、こう切り出した。
「井上さんが旧統一教会で『祝福』を受けたとの情報が入りました。事実ですか。どういう経緯だったのでしょうか……」
「井上さん」とは、第1次内閣で安倍の秘書官を務め、この7月の参院選に自民党比例代表の枠で出馬していた井上義行のことだ。この電話の2、3日前に、旧統一教会と接点が生まれたとの噂を耳にしていた。
「そうだね……」
言葉少なに安倍は答えた。
長きにわたり取材を続けてきたが、安倍の周囲で「旧統一教会」の名前を聞いたのはこの時が初めてだった。
私はその時、表現しがたい違和感に襲われた。というのも、私が大学に入学した際、自治会や学部の先輩などが、旧統一教会の下部組織である「原理研」に対して、徹底した注意喚起を行っていたことが思い出されたからだ。
また当時、同級生とその家族が、同団体に苦しめられた経験も鮮明に蘇った。正直なところ、四半世紀以上の時を経ていたこともあり、団体の存在すら忘れていた。
安倍は私の問いにこう答えた。
「私自身は、さほど関与していないから……」
2021年9月、安倍は旧統一教会の友好団体「天宙平和連合」のイベントにビデオメッセージを寄せている。山上徹也容疑者はこの映像をみて「殺害を決意した」と供述した。安倍は、日ごろから、多忙を極める中でも会場に駆けつける場合と、逆にビデオメッセージだけで済ませる場合がある。こうした使い分けで交流関係に違いを出し、ある種の距離感を滲ませていた。
そのうえで安倍の言葉を振り返ると、祖父・岸信介の時代における旧統一教会との経緯や、米国との関係などを踏まえつつも、徐々に距離を置こうとしていた様子がうかがわれた。ただ、この話題は結局それ以上続くことなく、その他、参院選の情勢や、派閥「清和会」の現状などについて話をした。
この時、安倍は選挙や政局は生き物であり、常に急変の危険性を孕むことを指摘した。その言葉を聞いて気になった私は、つい第1次政権と第2次政権、過去2度の安倍の退陣がどれほど衝撃を与えたか、口にしてしまった。すると安倍は「心配しなくても、もう、そういうことはありませんよ」と早口で遮った。
ひとしきり話を終えると、安倍は「もうこんな時間だ。明日も遊説がある。また明日」と言って電話を切った。
これが生涯最後の会話になると、誰が予想できただろうか。
その翌日――。7月8日午前11時35分。安倍銃撃の一報を受けた瞬間、目の前が真っ暗になり、全身が脈打つような錯覚に襲われた。
安倍は政治家のなかでも屈指の強運の持ち主だった。伊勢志摩サミットなど、ここぞという場面では雨の予報を裏切って雲を散らし、晴天を呼び込んだ。
「志半ばで命尽きるはずがない」
冷静さを取り戻すために、何度も自分にそう言い聞かせた。第1次政権の退陣直後、失意による自殺説が流れたことがあった。その時も安倍は入院先からこっそり電話に出て、か細い声で応じた。きっとあの時と同じだ。「本当に大変だった。危ないところだった」と軽口を叩くに違いない。藁にもすがる想いで電話を鳴らし続けたが、二度と通じることはなかった。